『徹反』はサブノートです(2025年7月31日)
『徹反』の前身はtwitter上で公開していた「スラ練用Q&A」なんだけど、これを公開していたときから、「これは僕が読者に代わって『黄リー教』のサブノートを作ってあげているんだ」と言っていたのです。
こういうことをした理由は、「サブノートを自分でうまく作れない読者がいる」ということもあるけど、最大の理由は「サブノートを作ること(←楽しくて、形として残り、他人から高く評価される作業)が目的化して、作ったサブノートを頭に定着させる作業(←辛くて、形として残らず、他人から評価されない営み)をやらない人がたくさんいる」ことです。
後者の人を「サブノート作成の最も重要な部分(=内容を頭に定着させるプロセス)」に専念させるために「スラ練用Q&A」を作り、これを『徹底反復練習』として本にしたのです。
ですから、趣味は読書さんが「僕、ものぐさでサブノート作りとか億劫になります。 なので『徹底反復』は手放せません。」と言っているのは、「まさにその通り」なのです。
『黄リー教』は翻訳の本ではありません(2025年8月1日)
「自分が黄リー教で1番難しいと感じてるのは翻訳の仕方です」←??
「普通の翻訳の仕方と節に重点を置いた翻訳の仕方の違い」←??
「そういう訳を使い分けよう」←??
すみません。仰っていることが、わかりません。『黄リー教』は翻訳の本でないどころか、普通の和訳すら重視していません。
『黄リー教』は「英文の構造を正しく認識できるようになるための本」で、それが出来るようになったら、次は、上手な和訳を工夫する(=翻訳する?)前に、「事柄(=英文が表している事実関係)」を正しく把握することに意を用いなさい、と言っているのです。
口を酸っぱくして言ってるけど、「構造も事柄もあいまいで、訳文だけ凝ったものを工夫しても意味ないでしょ」というのが『黄リー教』の和訳に対する考え方です。
フワフワした根拠(2025年8月1日)
「そこはかとないフワフワした根拠にしか基づけず」←言い得て妙ですねでも、そうなんだよね。他の教科は、多くの場合、正解したときは「これが正解だ」って自分ではっきりわかるのに、英語の場合は、読むにしても、書くにしても、「他人が正しいとしているから正しいんだろう」というような曖昧な根拠しかもてない。そうでない世界があることが想像できない。
『黄リー教』をやった多くの人が『黄リー教』を強く支持するのは、単に知識が増えたというようなこととは全く違う「なにか」を得たからなのです。
中学2年生で『黄リー教』(2025年8月1日)
中学2年生なら十分に時間があります。1年がかり、2年がかりで勉強したって、問題にならないくらい早いです。いや、早いとか遅いとかの問題ではない。こういうこと(=英語の本当の基本)をほとんど知らず、丸暗記一本やりで勉強している(英文法ですら4択問題の解答の丸暗記が英文法だと思っている)高校生がほとんどなのですから。
というわけで、『黄リー教』+『徹反』で、ゆっくり、落ち着いて、途中で何回も中断する時期があっても全然問題ありませんから、息子さんと一緒に勉強してあげてください。
そのときはもう高校生になっているかもしれないけど、最後に『黄リー教』の考え方を身につけたとき、息子さんは必ず「一緒に走ってくれたお父さん」に感謝しますよ。
高校生で『黄リー教』に巡り合う(2025年8月1日)
ゆり勉強さんの気持ち、すごくよくわかります。でもね、高校生のうちに『黄リー教』に巡り合って、勉強できたのは、読者全体から見ればものすごく早くて、ラッキーなことです。
中学以来何十年も、その間英語に触れないのであればまだしも、仕事や趣味で日常的に英語を読み書きしてきて、「品詞・働き・活用の相互関係」を全く知らず、『黄リー教』を読んで初めて知った、というような人がたくさんいるのですから。
「英文の読み方」は同じ(2025年8月1日)
本によって「英文の読み方」に違いがあるわけではない。「英文の読み方」は、どんな英文でも同じです。
その「どんな英文でも同じ『英文の読み方』」を習得するための本が『黄リー教』であり『徹反』であり、その「どんな英文でも同じ『英文の読み方』」を実際に使って英文を読んでみせたのが『ミル「自由論」原書精読』であり『英語リーディングへの招待』であるのですから。
『徹反』の一つのやり方(2025年8月2日)
どうもとっさに良い例を思いつかないのですが、私の父は高校に自転車で通っていました。川沿いの土手の上の一本道を30分くらい走って高校に着くのですが、冬の早朝は寒いので、家から高校までずっと両手をポケットに入れたままで、両手放しでこいで行ったそうです。戦前の田舎のことで交通量もほとんどない道だったと言っていました。
つまり、父にとっては自転車で走って行くのに手は必要ない。足があれば十分だったのです。それでは、最初から手はいらないのか?ハンドルもいらないのか?ペダルだけついていれば十分なのか?小さい頃、自転車に乗り始めの頃から両手放しで乗っていたのか?
そんなことはありません。まず両手でハンドルをしっかり握って、自転車に乗ることを覚えた。それで慣れてきたら、両手放しで乗れるようになった。高校生の頃には、走り出したら、ずっと両手はポケットに入れたままで、口笛吹ながら、30分も走り続けられるようになった。こういうことです。
では、そうなったら、もう自転車にハンドルは不要なのか?とんでもない。とっさに何かをよけるようなときには、パッとポケットから手を出してハンドルを握るのです。
要するに、こういうことです。野村先生が仰る「即答できなくても概念を理解できていれば読んだりするには十分」というのは、本来は「両手放しで自在に自転車に乗れるような人」のことなのです。
ただ、『黄リー教』を勉強している人が『徹反』に即答できることにこだわり、なかなか即答できるようにならないので、嫌になって挫折してしまう。野村先生は、こういう人が多いのではないかと感じて、「挫折するくらいなら、『即答できなくても概念を理解できていれば読んだりするには十分』なんだから、即答にこだわらず、『黄リー教』を読んで理解した概念を使って、英文を読んでごらんなさい」と言っているのです。
これは一つのやり方です。これなら先へ進む負担(=スラ練の負担)が減りますから、挫折しないで一周できる可能性が高まる。しかも、『黄リー教』で学んだ概念を使って英文を読んでいるので、有効性も実感できる。「これで、自分の目的を達するくらいには読めるようになった」と思えば、それ以上やる(=即答できるまでスラ練する)ことはないでしょう。
それに対して、このやり方だと、むしろ途中で分からなくなって先へ進めなくなる人もいる。そうしたら、Kohanaさんのように、最初に戻って、スラ練を徹底的にやって、即答できるようにすると、先へ進めるようになる。
あるいは、一通り、最後までやって、英文も読めるようになったが、どうも「正しいという根拠」を言葉で言えないので、スッキリしない、と感じる人もいる。そういう人も『徹反』をスラ練して、即答できるようになると、スッキリする。
こういうことです。野村先生は「完璧な即答を目指し過ぎて、挫折するくらいなら、完璧な即答じゃなくても、『黄リー教』の概念を理解していれば十分読めるようになるから、肩の力を抜いて、ともかく最後までやりなさい」と仰っているのです。
②の過去分詞形容詞用法(2025年8月2日)
becomeとturnedが多いですが、goneもあるという感じで、3つ全部覚えておきましょう。それから厳密に言えばcomeもあります。ただし、comeの場合は補語にtrueが来る場合にほぼ限られていて、被修飾語の名詞も何でもいいわけではないようです。たとえばa dream come true(実現した夢)とかa wish come true(実現した願い)はOKなようですが、a hope come trueとかa plan come trueは言わないようです。要するに「特定の名詞 come true」でidiomと考えるのがよいです。
上手な和訳(2025年8月2日)
好きな本を読んで楽しんだり、必要な英文を読んで情報を得たりしているときは、英文から意味を汲み取っているだけで、和訳していないのです。和訳していないのですから、「訳し方」とか、まして「上手な和訳」とかは問題にならない。『黄リー教』を勉強しているときは、「和訳を上手に作る」ということはあまり気にせず、「英文の構造」と「英文が表している事柄」を正しく把握するように心がけたらよいと思います。
「時制」について(2025年8月2日)
「17-11-2 tenseとtime(時制と時)」を読むとたいていの人はぶったまげます。なぜなら「私たち(=本書の著者である薬袋と読者であるあなた)のように、動詞・助動詞の1語1語について活用を考えていれば、時制などどうでもいいのです」と書いてあるからです。
しかし、一般には「時制は非常に重要で、ここをしっかり理解しなければいけない」ことになっている。そこで文法書の「時制」のところを一生懸命読む。すると、そこに書いてあることは一応理解できる。しかし、やっぱり「で、時制って何なの?」という根本的な疑問がいつまでも残る。
そこでtense(時制)のことを少しお話ししましょう。「時制」という概念には2つの側面があります。1つは、『黄リー教』p.350に書いたように「述語動詞部分の最初の語に現在形、過去形、will, shallのどれを使っているか」を表す側面です。これを通常「基本時制」と呼んで「現在時制・過去時制・未来時制」の3つがあるとされています。
もう一つは、これは『黄リー教』には書いてありませんが、「完了と進行形を英文法全体の中でどこに分類するか」を表す側面です。これは「完了時制」「進行形時制」と呼ばれています。
そこで、多くの参考書は次のような書き方をします。 時制には基本時制と完了時制と進行形時制の3つがあり、さらに基本時制は「現在時制・過去時制・未来時制」の3つに分かれる。
このような構成(=書き方)が時制を分かりにくくしているのです。この構成を読んだ多くの人は「時制は基本時制と完了時制と進行形時制のどれかである」と思ってしまいます。そうではない。「基本時制」と「完了時制・進行形時制」は同じ次元に並ぶ概念ではないのです。
完了時制の中に基本時制があり、進行形時制の中に基本時制があり、さらには「完了でも進行形でもない文」にも基本時制があるのです。これでは分からないですから、最初からきちんと説明しましょう。
全ての文は「完了でも進行形でもない文」「完了の文」「進行形の文」の3つに分類されます。そして、この3つの文にはそれぞれ述語動詞部分があります(「構造上の主語+述語動詞」という構成をもつ語群を「文」と呼ぶのですから当然です)。すると、その「述語動詞部分の最初の語」には「現在形、過去形、will, shallのどれか」が使われています(必ずこのどれかが使われるとは限りません。命令文や仮定法現在の文では「述語動詞部分の最初の語」は原形です)。ここに着目して「現在時制・過去時制・未来時制」と呼ぶのです。
ですから、 「完了でも進行形でもない文」に「現在時制・過去時制・未来時制」の3つがあり(ただし、命令文や仮定法現在の文はこの3つのどれでもありません)、 「完了の文」に「現在時制・過去時制・未来時制」の3つがあり(それぞれを現在完了、過去完了、未来完了と呼びます)、 「進行形の文」に「現在時制・過去時制・未来時制」の3つがある(それぞれを現在進行形、過去進行形、未来進行形と呼びます)、 という関係になっているのです。
つまり、再度言いますが「現在時制・過去時制・未来時制」と「完了時制と進行形時制」は同じ次元に並立する概念ではないのです。まず、ここを根本的に理解しなければいけない。
そして、さらに事を複雑にしているのは、「時制」の他に「時(時間)」という概念があり、「現在時制が未来を表す(たとえば現在進行形が未来を表す場合)」とか「ここは過去時制で現在のことを言っている(たとえば仮定法過去の場合)」などという説明が普通に出てくることです。
さらには「未来時制などというものはない。時制は現在時制と過去時制の2つだけだ(なぜならwillとshallは現在形だからです)」とか「完了時制は間違い。完了は時制ではなくて相(aspect)だ」などと説明する本や先生がたくさんいることも、「時制」の分かりにくさに拍車をかけています。
さて、最初に戻りましょう。「時制」という概念の第1の側面、すなわち「述語動詞部分の最初の語に現在形、過去形、will, shallのどれを使っているか」を表す側面は、単純に「述語動詞部分の最初の語」の活用が何形かを言えばよいことです。F.o.R.では、最初の語に限らず、述語動詞部分を構成する全ての語(=動詞と助動詞)の活用を必ず考えます。それどころか、進行形と受身の文の述語動詞部分は「学校文法の捉え方」と「辞書の捉え方」の2つで、常にダブルで、活用を考えます。
「時制」という概念の第2の側面、すなわち「完了と進行形を英文法全体の中でどこに分類するか」を表す側面は、そもそも「英文法全体の中でどこに分類するか」ということ自体が必要ありません。全ての文は「完了でも進行形でもない文」「完了の文」「進行形の文」の3つに分類されるとしておけばそれで十分です。これをさらに完了時制、進行形時制などと呼んだからといってそれで何かが分かるわけでもありません。
そんな分類はどうでもいい。それよりも「完了の文」はどういう形で、何を表すのか?「進行形の文」はどういう形で、何を表すのか?を個別にしっかり理解しておけばよいのです。『黄リー教』では、これに「受身」を加えて、進行形→受身→完了の順番で徹底的に勉強します。
さて、ずいぶん長くなりましたが、以上で『黄リー教』では「時制」という言葉を「説明の中でまったく使っていない」理由がお分かりになったと思います。


